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雑記

東日本大震災当時のうちの話をしよう【苦難の時こそ宴会】

ショコハジロです。

忘れもしない2011年3月11日。

岩手県在住の私は、当時ももちろん岩手県に住んでいました。

当時の私は高校生。正確には、卒業式を終えて就職までの間の期間といった所でしたが。

という事で今日は、東日本大震災当時の話を振り返りながら記していこうとおもいます。

今更感ありますけど、こういう大震災の事は何度思い出して教訓にしても損はないからね!!特に今年は日本でいろんな災害がおこりまくってるからな!

 

東日本大震災当日、その時私は

東日本大震災当日。家族は出払っていて家には私1人と愛犬のみ。

忘れもしない昼下がり、2階にある自分の部屋のベットにすわって何気なーく、マンガ「MAJOR」の並んだ本棚を眺めていました。

すると、カタカタカタカタ・・・地震でした。まもなく、だんだんと揺れは強くなっていき、本棚にならぶMAJORは飛び出し、もはや本棚まで傾いてしまうような状態に。

「今の地震、けっこうやばかったんじゃないか!?」

正直、けっこうな揺れに半分興奮し、震度どんくらいまでいった!?ってワクワクしてる自分がいました。この地震が、壮大な被害をもたらすとも知らずに。

 

愛犬が今までにないほど震えていた

揺れがおさまるとひとまず、1階の居間と愛犬は大丈夫だろうかと確認しに行きました。

そこで見たのは、愛犬スペースの隅っこにうずくまり、ガタガタと震えながら鼻から高い音を出して怯える愛犬の姿でした。今までに見たこともない怯えようで、すぐさも愛犬のもとへ行き抱きあげました。すると案の定、私にくっついて離れません。相当怖かったのでしょう。

 

テレビをつけて震度を確認しようとすると

愛犬を抱きながら、ひとまずテレビで震度を確認しようとリモコンのスイッチを押します。

「・・・?」

テレビがつかない。主電源か?と思い、主電源をつけたり消したりしてみるがびくともせず。今の地震で配線がおかしくなったか?と思いましたが、まさか・・・と思い電気をつけてみる。つかない。

「停電だ!?」

停電を経験するのは、初めてでした。この時も、正直ワクワクしてる自分がいました。停電なんて初めてで、一種のイベントのような気分。電気がないとどういうふうになるのだろう!?という好奇心が満々。電気がないという事がどれだけ不便か、この時は全然わかっていませんでしたね。

 

家族が帰ってきた

そうこうしてるうちに、どこだかに出かけていた家族が次々と帰ってきました。

「町、すごいよ!信号機まですっかり消えちゃって、もう混雑状態!!」

そうか、停電したという事は町の電気も全て消えてしまうわけか。車を運転する身の今になって分かりますが、信号がつかないなんて相当恐ろしい話ですよね。

「ちょっとお母さん、買い物行ってくるからね!」

家族と愛犬の無事を確認した母は、そういって自転車で買い物へでかけました。

少しすると、そこそこ近くに住む親戚のおばちゃんといとこ、それからおばぁちゃんがうちにやってきました。

おばぁちゃんは一人暮らしだし、おばちゃんたちの所はマンションで、水が出ない状態に陥ってしまったのだそう。次もいつなん時大きな揺れがくるかも分からないし、避難してきた感じですね。

 

母が買い物に行き買ってきたもの、それは

そのうちに、母が帰ってきました。

「すごい、スーパーもコンビニもすごい混んでる!ガソリンスタンドなんか行列だっけよ!!」

どうやら外は、予想外に凄まじい状況のようだ。そんな母が買ってきた荷物に目をやると、そこには

大 量 の ビ ー ル

いや、もちろん開けてそのまま食べれるような食糧とかも買ってきてくれてたんですけどね、ビールのほうがあまりに大量で、びっくりしてしまいました。言っておきますけど、うちの両親は晩酌は毎日しますけどアル中とかでは決してないです。

「もう近所のスーパー品物けっこう売り切れちゃってて!でもね、ビールが地震によって棚から大量に落ちちゃったみたいで、へこみとかいっぱいだからすごい安くなってたからね、買ってきちゃった!」

そうか、酒屋さんももう通常じゃ商品にならないし、こんな災害がおきちゃあビールも売れないから、めちゃくちゃ安くして目を引いていた訳か。そして、それにまんまと母が引っかかった(笑)

 

ラジオで情報収集、住んでいた町の震度は

ラジオで情報収集、最大震度や被害状態を探ります。

住んでいた町の震度は5強。こんだけ強い震度だったけど、ここよりも強い震度の箇所がたくさんあって衝撃を受けた事だけは覚えてます。

 

その夜は宴会でした

その夜はというと、親戚やおばあちゃんが集まって賑やかという事で、宴会でした。ビールもたくさんあるし

こんな災害の中宴会!?って感じですけど、皆あつまって安心だったんでしょうね。誰一人暗い顔なんかしていませんし、それどころか笑いが絶えない状態。無理してそういう雰囲気を作ってる訳でもなさそうでした。

電気はつかないので、私が何故か100均で買い込んでいたローソクが大活躍。テーブルにいくつも並べ、幻想的な状態に。ローソクによって皿がこげてしまったりもしましたが、それすらも皆で笑って楽しんでいました。

この話を他の人にすると、「え!?」みたいな反応をされるんですけど、これはこれでよかったんじゃないかと思っています。普通こんな災害に見舞われたら不安でどうやって生きるか考える状態なんじゃないの!?もっと危機感もとうよ!って言いたいんでしょうけど、こういう大災害が起きたからこそ暗くならずに明るくいこう、っていうのも一種の正解なのではないかと。まぁ海は遠かったから陽気にできてたってのもあるんでしょうけど。そんな家族のおかげで、私はまた大震災が来たとしても乗り越えていける自信がありますよ。

 

それにしても寒かった

その夜は、寒い夜でした。岩手で3月初めといったら、まだまだ暖房を必要とする時期。しかし、電気が通らなくなってしまった以上、暖房は使えません。

もちろん電気が通ってないとお風呂も沸かせないので、お風呂であったまるなんて事もできませんでした。

私たちは服を着こみ、コートを着て、マフラーを巻いてから布団をかけて寝ました。これでなんとか乗り切りましたね。

 

電気がないなりの生活

電気がない生活というのは、かなり不便なもので、

まず、炊飯器が使えない。しかし、ガスは辛うじて通っていたため母が土鍋でご飯を炊いてくれました。

そしてさっきも言ったように、お風呂が湧かせない。水は出るのに。こんな寒い日に冷水でシャワーを浴びるわけにもいかないので、停電解除まではくさいまま過ごしました()

これもさっき言いましたが、暖房が使えない。寒い時期だったのでかなり厳しかったですね。

テレビがつかない。情報収集に致命的でした。

ケータイの充電ができない。これは電池式充電器があった+父が仕事柄車に電池を大量に積んでいたという事でなんとかしのぎました。ガラケーの時代だったので乾電池二本で2回分くらいは充電できたんですよね。

冷蔵庫・冷凍庫の中のものがやばい。しかし幸い寒い時期だった為、冷蔵品やビールは外で冷やしてました。

家の中だけで、覚えてるだけでもこんだけ大変なことがありました。完全に生活に支障をきたしてましたね。

停電は3日目に解除されました。3日電気がないだけでこんだけ大変なんだな、と電気のありがたみをかなり感じましたね。

 

燃料がないという苦難

停電が解除されても、大地震のせいで物資が配達されず、町はしばらく燃料不足。石油もですけど、ここはド田舎ですから車がないと生活できません。ガソリンスタンドは給油制限をかけ、常に混んでいる状態。

こんな状態なので無駄に車は使ってられません。ガソリン供給が安定するしばらくの間、母はスーパーまで自転車でいったりきたりしてました。

私も3月後半就職予定先にバイトの予定があり、いつもは母に送ってもらうのですがそうも言ってられないので自転車で片道1時間かけてがんばりました。

ガソリンが安定して供給されるようになるまでは、具体的には思い出せませんがけっこうかかったイメージでしたね。

 

おまけ:当時の彼氏に会いたいと言われキレてしまった

超どーでもいい話なんですけど、停電してる最中に、近くに住む彼氏に「会いたい」と何度も言われキレてしまったことがありました。

停電でシャワーも浴びれないレディーに「会いたい」って、おい!こっちの気持ちも考えろよ!髪も洗えない体も洗えない、くさいままで会えってか!?こっちはお年頃だぞ!!!!

という事で、もし震災に見舞われた際男性は、自分勝手に「会いたい」と言うのではなく相手の状態も考えてあげてくださいね♨

 

おまけ:テレビがついた時、ACのCMが流れまくっていた

停電が解除され、テレビで情報を得ようとすると、情報の合間のCMがすべてACJAPANのCMで凄まじかったです。この大震災で、どこの企業もCMの放送を自粛してたんですね。

特に記憶に残ってるのは、「楽しい~仲間~が、ポポポポ~ン!」ってやつ!あればっかり流れてた。ありがとうさぎ~!とかのやつ!いやーあれはかなり洗脳された。

CMの最後に「A~C~♪」ってなるやつ、今のACの広告では言い方が変わって「AーC-JAPAN♪」になってますけど、それはA~C~♪ってメロディーが大震災の記憶をフラッシュバックされるからと苦情がきまくって変わったという噂があるんですけどマジですか?

 

大震災を経験して思う事

東日本大震災時のショコハジロ家の状態は、大体こんな感じ。海からかなり離れた内陸でも、これだけすごい被害がありました。

そんな大震災を経験して思う事がいくつかありますね。

・停電時、オール電化の家は大変。

食にありつくのに、ガスにはかなり助けられました。

・身内が近くに住んでいるというのは安心

身内の無事もすぐ確認できる上、たくさんあつまると不安なんてものの感情の順位が低くなる。

・自転車大活躍

停電で道路が混雑・道路が破損・ガソリンが入ってこない、などなどの問題がある中、これら全て自転車があれば解決でした。体力は欲しいけどね。

・ラジオと電池は常に用意しておくべき

停電になった時、情報源として頼れる物はこれだけです。特にケータイは電波が繋がらなくなる他、今のスマホは電池での充電では足らない程電力を食うのでさほど役にたたないでしょう。

・コンセントでない光源も何かしら用意しておくべき

コンセントでない光源も何かしら用意しておくべきです。夜になっても停電が復活しない時は光がないと何もできません。懐中電灯が一番安全ですね。うちみたいにローソクでもなんとかなりますが少し危険です。

 

再び大震災が来ても対応できるように

来ないに越した事はないですけど、再び大震災が来ても対応できるようにしっかりと防災グッズは準備しておきたいですね。

ちなみに実家には被害の痕跡がまだ微かにありますよ。家が歪んだことによる壁紙の隙間や、当時うさぎ小屋だった場所のヒビなど。

あれだけ凄まじかった大震災、あれから7年経ってますけど岩手県の沿岸ではまだまだ被災の後が見られます。家の土台だけの状態とか、鉄骨だけしか残ってない家とか。小さい頃遊んだ陸前高田の海はもう海水浴なんかできません。

忘れた頃に災害はやってくるっていいますが、常に構えてるのは流石に無理があるのでマジで防災グッズだけは疎かにしないよう過ごしたいと思いますね。

 

おわり!ショコハジロでした!